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百合好きが百合や百合以外の話をする

「アンジュ・ヴィエルジュ」アニメ版は百合作品として革命的だ

7月から9月まで放送されるアニメ(いわゆる「夏アニメ」)が次々に最終回を迎えました。

さて、この夏「百合」を語る上で重要な作品がありました。

ヒット作に続くシリーズであり、描写が格段に強化されたラブライブ!サンシャイン!!。リアル寄りの設定、高めの年齢層でも質の高い百合表現ができることを示したNEW GAME!。常に二人の関係をコアに、丁寧に、美しい情景を背景に描いたあまんちゅ!

数々の優れた作品が生まれたこのクールですが、ストーリーおよびその中で描かれる(女の子同士の)関係性という意味に絞って考えれば、実はアンジュ・ヴィエルジュは最も革新的といえる作品だと考えています。

 

描かれる関係が濃密であること、激しい感情のぶつけ合いが見られることはこのアニメの魅力のひとつ。しかしそれだけではありません。

アンジュ・ヴィエルジュが革新的といえるのは、様々な関係性についてひたすらにフラットで自由、つまり我々が生きる現代社会の規範に囚われていないという点です。

 

 

「闇堕ち」というフォーマット・「絆」というテーマの相乗効果

アンジュ・ヴィエルジュのアニメは描かれる関係性が魅力的です。それは「闇堕ち」の設定の秀逸さ、そしてそれを最大限活かす背景が用意されていたのが一因といえるでしょう。

闇堕ちしたプログレスは世界崩壊のために戦うことになると同時に、本音を言ってしまうようになります。

つまり闇堕ちの前は立場だったり関係の変化を恐れたり相手に気を遣ったりで言えない「本音」が思い切りぶつけられるということです。

相手に依存されているままでいたいという愛。

友達と思っている相手に向けるコンプレックス。

かつて見捨てられたことへの遺恨。

姉妹で上司・部下という立場に阻まれる(セックスしたいという類の)愛情。

このような今まで隠していた感情を露わにしながらバトルするわけなので*1、百合好きなファンの心を捉えて離さないのは自然なことです。

 

様々な「絆」の形と、それを同等なものとして描くこと

百合好きの人は普段様々な百合作品を楽しんでいると思います。その百合作品として認識されているものの中には、そこで描かれているのは「恋愛」とは明言されていないものも少なくないのではないでしょうか。

では本当はそれらの作品は「百合作品」と認識してはいけないのか、というとそうではないでしょう。友情とも慕情ともつかない、本人にも言葉で表せない感情は「百合」ではないのか、といえばそんなことはない。

あるいは、そういった感情と恋愛とはグラデーションであり、可分なものではないという考え方もあります。*2

 

さて、「絆」がテーマなだけあって、紗夜は絆を得ていきます。その絆はチームメンバー全員とのものであり、 しかしそこに横たわる想いはそれぞれ異なっています。

ここでのポイントは「複数の相手と」「それぞれ違った」絆を築いているということですが、まずは「それぞれ違った」という点に注目します。

アルマリアからは血を求められ*3、エルエルには特に大事な友達として扱われ、ステラには家族のような愛をくれる存在と認識され、ナイアには信頼を置かれる、というふうに。*4

それぞれの絆、紗夜に抱く感情は違う。では明確に恋愛感情を持っているアルマリア以外は百合じゃないのか?というと、前述の通りそんなことはないですね。

これは感覚的にもわかってもらえると思います。例えばエルエルはレミエルとの関係は同じく「友達」と称しているものの、コンプレックスを抱えながらも独占欲を抱く、という複雑な感情を向けられています。とても「百合」らしい設定ですね。

さらに言うなら、これらの絆は物語の中で平等に価値あるものとして扱われています。

絆を得る過程を物語と照らし合わせると、紗夜が4人と絆を結ぶことで各々の故郷を救う、という形になっています。つまり物語上、それぞれの絆の重要性は等価なのです。*5

フィクションでは(あるいはリアルでも)恋愛だったり、あるいはその先に形成される家族の絆は友情より優先されるものと捉えられがちです。

しかし、このアニメはそうではなく、どれもが比べられない尊いものと扱っている。*6

アンジュ・ヴィエルジュはいろいろな形の絆を描きながら、その中に優劣をつけていない*7。百合作品、あるいは百合愛好家でも陥りがちな「恋愛至上主義」から脱却しているのです。

 

以上「それぞれ違った」絆が、平等に描かれていることを述べました。

では、「複数の相手と」という点に関してはどうでしょうか。

 

本質的な「複数愛」性

アプリ版アンジュ・ヴィエルジュにはプレイヤーがαドライバーとなってプログレスたちと仲良くなるというギャルゲー的(私はギャルゲーに精通しているわけではないのでこの言葉は的確ではないかも)構造が存在しています。

これがアニメ版ではオリジナルのαドライバーとして天音が配置されています。しかし、単純にプレイヤーを天音に置き換えた百合ハーレム作品ではありません。彼女はウロボロスの侵攻により囚われてしまいます。

全編にわたって主人公の役目を担うのは紗夜で、彼女が他のメンバーと絆を結ぶことでその相手が強敵と戦い、故郷を救うという流れが繰り返されます。

しかし、このアニメは紗夜ハーレムかというとまたそう単純でもありません。紗夜が築いた絆は、最終的に天音との絆を取り戻すための礎となっています。

紗夜はチームメンバーとの絆を得ることで、天音との関係を見つめ直し、天音を救い出す鍵になった「天音のことをわかろうとする」という意思を確かなものにしています。

同様に他のチームメンバーも、紗夜(と、先輩たち)との絆を以って天音と向き合うことになります。

ここに一種のポリアモリーでみられるのと近い関係性が現れています。ある相手への愛情を、別の者との絆を結ぶことで再確認し、その思いが強くなる。この構造は百合作品の中にも未だに存在する「一番好きな人と特別な関係を結ばなければならない」モノガミー的価値観とは一線を画すものであります。

 

アニメの描く絆の形、紗夜が学んだこと 

紗夜は天音のパートナーとなるプログレスが自分だけではないことに、「自分は特別ではない」と思い悩みました。

しかし、自分自身が他の仲間と様々な絆を結ぶことで、天音への想いを再確認し、救い出すことに成功します。

それは紗夜の認識が自由になったことでもあります。

何をおいても天音の一番にならないといけないと考え悩んでいたのが、自分が天音を想うことに確信を見出すようになる。紗夜は他の仲間と絆を結び、「ある人を愛しているからといって、別の人への(別の形の)思いは失われない」ことを体感し、天音との絆もより強くしたのです。

これはこのアニメが繰り返し描いてきた境地を、最終的に紗夜が自覚できるようになったということです。

 「異性愛規範」のみならず「恋愛至上主義」「モノガミー」からも解放されてひたすらに女と女の絆を描き続けたアンジュ・ヴィエルジュは、まさに百合の最先端を走り抜けたアニメだったといえるでしょう。

 

 

 

 

少し補足。

 

・もちろん、複数愛的なものが描かれているといっても個人として一人と特別に強い絆を持つことが否定されているわけではありません。

ずっと二人の世界に入っているサナギ姉妹とか。

 

・恋愛がひとつだけなら別にポリアモラスではないでしょ、という意見はあるかもしれません。でも前述の通り恋愛とそれ以外は明確に分けられるわけではないし、実際に6話や11話のお風呂シーンのように、抱く感情が自分とは違う相手に嫉妬する描写もあります。

それにアルマリアに関しては完全にソフィーナに対しても紗夜に対しても抱いている感情は恋愛の文脈で描かれているので(さらに、その恋愛の中でも違いはある)、個人が持つ心の有り様として複数愛が否定されていることはないといって良いでしょう(ただし、アルマリアの態度が誠実かどうかは別問題)。

*1:サナギ姉妹はまあ…

*2:「性欲を抱くか否か」という基準はまあ有効っちゃ有効だけど、それも必ずしも全ての人にあてはまるものではないので。ロマンチック・アセクシャルとかでググってください

*3:これは当然、性欲のメタファー。ただしこの作品では吸血に性感は伴わない設定

*4:これが端的に現れたのが11話のお風呂シーンで、それぞれの接し方の違いが出ていて面白い

*5:描写に関しては1週で終わったナイアが割を食ってるけど

*6:ただ言葉の使い方までは意識的なわけではないようで、アルマリアは紗夜に対して「友達以上」と言っています。ただ、「友達」として紗夜を大事に思っているエルエルと言い争わせているシーンなので、この言葉をもって制作側が恋愛>友達という考えということにはならないでしょう

*7:もちろん、本人の抱く感情の強さには違いはあるでしょう。ここでは、表現される価値に違いがあるかどうか、という意味