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百合好きが百合や百合以外の話をする

「百合」の定義

 

作品を「百合作品」といえるかどうかの判断基準について前記事で考えましたが、 物語の中の一つの関係を「百合」といえるかどうかはどうでしょうか。

正直とても面倒な話になっていくので、百合好きな方は人のことを気にせずそれぞれ「私の信じるこれが百合だ!」みたいなスタンスでいくのが良いと思います。

ただ当ブログでは百合について頻繁にお話ししようと思っていますので、余計な争いを避けるためにもこのブログはこういうスタンスでやってます、ということを示しておこうと思います。

 関係性からみる百合の条件

女性*1同士で交際していたり、キスやセックスなどの接触があれば確実に百合といえそうです。

では、そういった行為をする関係でも心が伴っていないような関係でも百合といえるでしょうか?

そもそも、どういう気持ちを持っていたら「心が伴った行為」といえるでしょうか?

愛する形は人それぞれです。一概にいえるものではありません。

例えばいがみ合っている二人に愛が生まれるというのは百合では(百合以外でも)よくあるシチュエーションです。「いがみ合っている二人」に、愛が生まれる予兆を感じて魅力を感じるのも読み方としては不自然ではありません。なので何らかの感情を持っている女性二人(一方通行でも片思いに読み替えれば良いです)は理論上受け取り方によっては百合になりえます。もちろん、(性的接触が行われうるほどの)愛に近接した感情ととらえるためにはその感情は一定の強さがないといけませんが、その強さの判断も受け取り方の問題になってきます。

以上のことを考えると、百合になるためには最低限のラインとして、

複数人の女性が、(強い)感情を(双方向あるいは一方的に)向ける」

ことは必須といえるでしょう。

逆にいえばこのラインを満たせば百合を感じられる可能性はありそうです。

時間とともに変化する関係

ここまで「百合」となるための人間関係の条件について考えてきましたが、ふつう物語の中では時間が経つわけで、当然その人間関係も時間とともに変化する場合もあります。そこでまた百合についての争いの火種となるポイントの一つが現れます。作品の結末、つまり物語が終わる時点での人間関係がどう決着したかということです。

百合好きな人は自分が百合だと思っていた作品(あるいは登場人物)がヘテロエンド(男女でくっつく結末)になるとがっかりすることがよくあります。こういう場合だいたい上で提示した関係は(少なくとも途中までは)満たされています。

しかし、起こっているのは似たような状況(例えば一定の絆を築いた女性同士の片方が男性と結婚するなど)でも「悲恋/片思いの百合作品」として評価を得る場合もあります。ではその違いはどこにあるのでしょう。

がっかりヘテロエンドの作品はある意味男女間の愛が「幸せな結末」として描かれます。一方、悲恋や片思いの作品は「(一時的かもしれないけど)確かにあった思いが報われなかった」ことで悲劇を描きます。

つまり、がっかりヘテロエンドの作品は、「結末で成立した男女の関係が成立しなかった女性同士の関係に勝ってしまう」ものだといえます。

一方、悲恋・片思いで幸せにならない作品でも「実らなかった思いは結果として起きた(男女の結婚などの)事象に負けない尊さがある」ものであれば、女性同士の関係の美しさを悲劇的に描くことに成功した作品といえます。*2

そう考えると、結末として最終的に男女で結ばれる作品を百合としてとらえられるかは、女性同士の関係を男女の関係以上に魅力的に描けているかどうかにかかってくるのではと思います。

 

 暫定的な結論

百合といえるかどうかの意見の食い違いは

・「女同士が向ける感情」の強さ 

・(結末がカップルにとって悲劇的な場合)過程にある魅力が結末で色あせていないか

以上を受容する上での感性の違いに起因すると思われます。ここをわかっていると無益な争いを避けることができるかもしれません。

 

結局言いたいことは

ユーフォもデレマスも百合ととらえるこのブログの感性が認められなくても怒らないでほしいということです。

あとお互い百合だと認め合った上での争い*3は有益な争いになる可能性があるのでどんどんするといいと思います。

*1:体と心の性別が異なる場合など「女性」も解釈が分かれますがここでは考えないことにします

*2:悲劇は好まない人もいますし、同性愛だからということで安易に結ばれないような展開はポリティカル・コレクトネスに反する場合もありますが、百合といえるかどうかという点に絞って考えると

*3:イチャラブ派VSノンスマ派とか